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第一小隊は先頭目標を狙え!

主に第二次世界大戦関連のお話などを、つらつらと。

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ソ連第20戦車旅団第91戦車大隊のSMK突破駆逐戦車



 SMK(セルゲイ・ミロノビッチ・キーロフ)と名付けられた戦車は、1937年、新型の装軌式突破駆逐戦車を求めるソ連軍の要求により開発がスタートした。最初のプロトタイプ車体の製作は、1939年1月に開始され、その年の9月には、ほぼ完成した車体がソ連共産党幹部にお披露目された。

 そしてクビンカ戦車試験場でのSMK突破駆逐戦車の試験が最終仕上げに入った頃、11月30日、スターリンの思惑でソ連・フィンランド冬戦争が始まる。ソ連・フィンランド国境、カレリア地峡に配置された600門ものソ連軍の重砲が、フィンランド領内に向け一斉に火を吹いた。
 カレリア地峡の150キロに渡る正面には、ソ連軍の9個狙撃兵師団と1個戦車軍団、および3個戦車旅団が展開し、フィンランド軍に猛攻を加えた。対するフィンランド軍は寄せ集めの装備からなる5個歩兵師団。フィンランド軍は僅かな反撃を加えただけで退却せざるを得なかった。だが、ソ連軍の攻撃がフィンランド軍の防衛線であるマンネルハイム線に差し掛かった時、ソ連軍の攻撃は頓挫し始める。フィンランド特有の地形と、50センチもの積雪、そして頑強なフィンランド軍の抵抗が、ソ連軍の侵攻を阻んだのだ。
 この膠着状態を打破するため、ソ連軍は、たった1両しかないSMK突破駆逐戦車の試作車体を、実戦投入することに決めた。SMK突破駆逐戦車には、ピエティンという名の中尉を戦車長とした4名の戦車兵と3名の技術者からなる7名の混成クルーが充当された。
 巨大なSMK突破駆逐戦車は、クビンカ戦車試験場から鉄道で輸送され、12月13日にカレリア地峡に到着した。そこで直ちに第20戦車旅団第91戦車大隊の特別重戦車中隊への配属が決定された。
 SMK突破駆逐戦車は、12月19日、マンネルハイム線の一部であるスンマ村付近の攻撃作戦に参加した。ソ連軍はSMK突破駆逐戦車を、戦闘の最も激しい地区に投入することに決めたのだ。戦車は、フィンランド軍が設置した鉄条網や対戦車壕、対戦車バリケードを、その巨体で踏みつぶし、難なく前進した。四方八方からフィンランド兵の放つ銃弾が命中するが、最大60ミリの装甲はびくともしない。SMK突破駆逐戦車は2つの砲塔を自在に動かして発砲し、戦線内を暴れまわった。
 だが気が付くと、ソ連歩兵は戦車に追随してこない。フィンランド軍の猛烈な機銃掃射で前進できないのだ。そのうち、肉薄したフィンランド兵が集束爆薬を投げつけ、激しい爆発が起こった。SMK突破駆逐戦車のエンジンは止まり、明かりの消えた車内に煙が立ち込める。周囲にフィンランド兵が群がる。仕方なく、ピエティン中尉は、SMK突破駆逐戦車に爆薬をしかけ、脱出することを命じた。その後、退去した乗員は、随伴して来た味方の戦車に辛うじて救助された。
 擱座したSMK突破駆逐戦車は、ただ1両、フィンランド軍の戦線内部に取り残された。フィンランド軍は、この珍しい戦車を捕獲して回収しようとしたが、55トンもの巨体をどうしても動かす事ができなかった。SMK突破駆逐戦車はそのまま雪に埋もれ、2カ月半後、スンマ地区を占領したソ連軍によって、ようやく回収されたのだった。




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