イギリス製重戦車、チャーチル歩兵戦車が戦場に最初に姿を現したのは、1942年8月19日に行われた北フランス沿岸にある港湾都市、ディエップに対する連合軍による強襲上陸作戦の時だった。この作戦は、イギリスが立てた計画(作戦名:ジュピリー)なのに、上陸部隊6000人の内、5000人がカナダ第2歩兵師団、残り1000人がイギリス軍とアメリカ軍というもので、最初からカナダ軍を生贄にすることを想定したような作戦であった。
ジュピリー作戦の為に用意された戦車は、カナダ陸軍第14戦車連隊に配備されたチャーチル歩兵戦車58両だったが、28両は予備としてイギリス本土に控置され、A中隊とC中隊に属する合計30両のチャーチル歩兵戦車が、10隻の上陸用舟艇に分載され、上陸地点へ向かった。
作戦中、チャーチル歩兵戦車2両が海没し、28両がディエップの海岸上陸に成功した。だが、ドイツ軍は、連合軍による上陸作戦計画を事前に入手しており、万全の防御態勢で待ち構えていたのだった。
けれども、ドイツ軍の準備した50mm対戦車砲では、重装甲のチャーチル歩兵戦車の砲塔や車体を撃ち抜くことが出来なかった。しかし、大量に準備された火砲の集中砲火を受け、大半のチャーチル歩兵戦車はキャタピラーを破壊されて行動不能に陥った。生き残ったチャーチル歩兵戦車も、対戦車障害物として設置された斜度30~40度の傾斜地でスリップし、前進を阻まれてしまった。
結局、ジュピリー作戦に於いて、連合軍は3894人の損害を出して戦果がないまま撤退した。イギリスに帰還できたのは2000人余りであった。カナダ陸軍第14戦車連隊は、作戦に投入した30両のチャーチル歩兵戦車を全て失った。
だが、チャーチル歩兵戦車に名前を提供した当時のイギリス首相、ウインストン・チャーチルは、この作戦を必ずしも失敗とは考えていなかった。作戦の目的は2つあった。一つはソ連のスターリンが度々要求する第二戦線構築のアリバイ作りをすること、そしてもう一つは、来るべき本格的な大陸反攻作戦に備えて、ドイツ軍の防御態勢についての情報を収集することだった。その2つの目的は充分に果たされた。
ウインストン・チャーチルにとって、ジュピリー作戦は、壮大な戦争の中で試みた、小さな実験に過ぎなかった。
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