トム・イェンツとヒラリー・ドイルの共著「ドイツ軍火焔放射戦車1941-1945」p33に火炎放射型3号突撃砲戦車に関する記事が掲載されている。火炎放射型3号突撃砲戦車については、ヴァルター・J・シュピールベルガー著「突撃砲」p185にも記事がある。
1942年12月始め(「ドイツ軍火焔放射戦車1941-1945」では1943年と書かれているがシュピールベルガーの本では1942年とされており、時系列的に1942年が正しいと思われる)、ヒトラーは火炎放射機付きの突撃砲を10両作るよう指示を出した。この命令に従い、1943年5月に9両、1943年6月に1両の火炎放射型3号突撃砲戦車が、旧型の3号突撃砲戦車の車体を利用して改修された。
これら10両は、第1戦車兵学校への配備が決まり、1943年6月23日に兵器廠から貨車で同校へ輸送された。配備後、7月に1両が火災で焼損して兵器廠へ送り返されたが、9月までに修理され第1戦車兵学校へ戻された。1944年1月、全10両の火炎放射型3号突撃砲戦車は、実戦に参加しないまま兵器廠へ返還され、2月に7両、3月に1両、4月に2両のペースで、全てが通常型の3号突撃砲戦車(75mm砲装備)に改修された。
火炎放射型3号突撃砲戦車の物語はこれだけである。何気なく読み飛ばしてしまいそうな話だ・・・けれども、ほとんど注目されたことは無いものの、これは冷静に考えると、とても奇妙なストーリーである。
まずヒトラー直々の命令で作られている。にも拘らず、実戦部隊には配備されないまま、第1戦車兵学校で教材に・・・ヒトラーの命令で作った秘密兵器を学生の教材に!?そして1両は謎の火災・・・事故なのか?
結局、最終的には全車両から火炎放射機が取り外され、通常型の3号突撃砲戦車に戻されている。
つまり、ヒトラーの命令が完全に無視され、最終的には撤回されているのだ。恐らく、この経緯をヒトラーは知らないだろう(何故なら、ヒトラーは、この後も度々、別の戦車を使って火炎放射戦車を製造させる命令を出しているからだ)。つまりこの一連の物語は、ヒトラーの命令に対する意図的なサポタージュの結果のように見える。
恐らく、前線で必要とされている3号突撃砲戦車が、ヒトラーの気まぐれにより、火炎放射戦車に利用されるのを快く思わない高位の将官が居たのではないか。その将官は、取りあえず10両の3号突撃砲戦車を改修する命令には従ったが、完成した火炎放射型3号突撃砲戦車は、実戦部隊を避け、第1戦車兵学校へ送り込んだ。火炎放射型3号突撃砲戦車を目立たせないためか、或いは消耗させないために。
そして1両の火災は、火炎放射型3号突撃砲戦車が欠陥品か、或いは実戦に適さないという評価を作るための意図的な工作だった可能性もある。そしてヒトラーが命令を忘れてしまったと思われる頃、これらの火炎放射戦車は、通常型の3号突撃砲戦車に戻して使用された。
そういう物語だったのではないだろうか?
火炎放射型3号突撃砲戦車を第1戦車兵学校へ送り込み、塩漬けにする命令を出した将官は、果たして誰だったのだろうか。
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